hikari・mania 

―ヒカリマニアの由来―

働く土地が終の棲家といいます。

友達もたくさん地元を離れました。

 

教育と刺激を求めて合理的な家出を果たした後は、

そのままの自然な成り行きで出稼ぎ先で仕事に就きます。

よっぽどの気概でもない限り。

 

行きつけの酒場で知り合った女性と結婚して子供にでも恵まれれば

あとは出世を待ってマイホームを持ってのっての相談で、

人生の歯車は止まりません。

 

子供を学校に行かせるために背中を押して見送った瞬間、

子供とのほぼ永久的な別れ。

年に盆と正月しか孫の顔が見られないそんな生活が親と子の関係です。

親が元気なうちはまだそれでも行けるけど、病気事故火事で人様にご迷惑

をと気がかりになり始めると、今度はこっちに移り住まないかと持ちかける。

しかし生まれ育ったこの土地を離れまいと、

ここで親と子のせめぎ合い。

しかし実はお互い気を遣うからと同居はあきらめる。

 

ここでようやく【近居】という形が現われます。

 

親と子がさほど遠くない距離でそれぞれに住みかを構える。

育児を手伝ってもらいながらの共働きや買い物の共有。

孫の誕生日には3世代でのハッピープレゼント。

力のない老夫婦のために息子が日曜大工。子供の運動会で

朝の早い婆ばが席取り・・・

挙げればきりがないが、いわゆる補填が効く。

 

でもこの関係をするには絶対的に街の力が必要です。

働く場所があり、理想的な住む環境があり、買い物もでき、

サービスや教育が整い、刺激的な遊園地や

お洒落なデート場所も必要でしょう。

 

街に魅力があれば人は住みます。

もちろん住む家が魅力的であればなお良いです。

 

人が住むことがまず前提。

新しい家族像が求められているし、期待する街の形が問われています。

年寄りだけでなく老若男女すべての年齢層がそれぞれに歳を重ねていく

ことが、その街の持続性を保つ方法だということを見直さなくてはですね。

 

住む人と、働く人との天秤はある程度均衡が保たれるべきでしょう。

住みたいなと思える地域が人を寄せ付けその周辺にお店が集まり、

様々なサービスや雇用がうまれ医療や教育や生産が必要になる。当然住宅も。

自然発生的な現象はまず人を引き付けることからでしょうか。

 

見聞広めるなり、行きたい所あるなり、一度は外に飛び出す若者を

街の力や魅力が引き戻せるだけの底力を蓄える。

少なくとも一つの対等な選択肢として 

実はそれが親の願いだったりします。 

長くなりましたがその持続的な街への提案がこのプロジェクトの概要です。

 

 

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